甲府中心街の「小江戸甲府 花小路」、通りの右側に「こうふ亀屋座」、左側にいろいろな店舗、向こう側は「甲府城跡・舞鶴城公園」

2025年7月25日金曜日

1927年・昭和2年の芥川龍之介と飯田蛇笏(二)

 それにしてもなぜ、芥川龍之介が飯田蛇笏の「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」の句に「人に迫るもの」があるとまで感じたのか。当時の龍之介の状況について振り返りたい。

 昭和に入るとすぐに、龍之介の人生は暗転する。昭和2年1月、義兄が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ自ら命を絶ったために、その対応に追われることになった。心身ともに疲れきる日々が続いた。

 実は、蛇笏宛の手紙を書いた3日前の4月7日に「帝国ホテル事件」とも呼ばれる出来事が起きている。この日、龍之介は「歯車」の最終章脱稿後に帝国ホテルに行き、妻の文の友人平松麻素子と心中することを計画した。しかし、平松が文や龍之介の友人小穴隆一に知らせることで未遂に終わる。小穴の『二つの絵 芥川龍之介の囘想』(昭和31年刊)では、その夜「自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた」と語ったと記されている。

 芥川龍之介の批評や研究では、この時期ただひたすら自死へと向かっていたという見解がほとんどである。しかし、そうではないと筆者は考えている。人間の生と死についてはもっと多元的な見方で考えなければならない。

 1927年、龍之介は「玄鶴山房」「河童」「蜃気楼」「歯車」そして「或阿呆の一生」「西方の人」などの優れた作品を書き続けていた。行き詰まりを感じながらも、新しい作品を書くことによって、これまでにない言葉を紡ぎ出すことによって、何とかその行き詰まりを打破しようとしたとも考えられる。


 龍之介の死後に残された遺稿の「闇中問答」という「僕」と「或声」との対話のなかで、「僕」は次のように語っている。

芥川龍之介!芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

 芥川龍之介は自らに呼びかけている。自分自身と子供たちのために「お前の根をしつかりとおろせ」「唯しつかり踏んばつてゐろ」と。そして、「これからお前はやり直すのだ」と自分に言い聞かせている。生と死の狭間のなかで、自らの行く末について揺れ動く龍之介の声が読む者に迫ってくる。

 この「お前の根をしつかりとおろせ」という言葉を逆側から照射して、蛇笏の「破魔弓や」句に対する「人に迫るもの」や「健羨に堪へず」という想いとつなげてみたい。

 「破魔弓や」の句からは子供たちの生命力あふれる声が聞こえてくる。新年という新たなものが始まる季節。子供たちの元気な声が山々に反響し、山国の厳しい冬に暖かさや明るさをもたらす。龍之介は子供たちの命の声による「山びこ」に「人に迫るもの」を感じとったのではないだろうか。さらに、自分の三人の子供たちの姿も思い浮かべたのかもしれない。

 山国の地にしっかりと根を下ろした子供たちと共に、蛇笏もまた山梨に根を下ろして、孤高の俳人として句作に打ち込んでいる。龍之介はそのような蛇笏のあり方への「健羨」の想いを抱いたのだと推測される。また、自身を取り巻く様々な困難や苦悩とは距離を置いて、蛇笏とその句に対して冷静に丁寧に想いを込めて手紙を書いている龍之介の姿もうかがえる。


 別の角度からこの手紙の意味について考えてみたい。         

 芥川は三月に大阪に行き、所謂「話らしい話のない」小説論争の相手でもあった谷崎潤一郎と久しぶりに会った。この後、龍之介は谷崎に立て続けに本を贈った。芥川没後、谷崎は「いたましき人」という追悼文でこの贈答を「死ぬと覚悟をきめてみればさすがに友達がなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれた」と振り返った。谷崎は芥川のことを次のように偲んでいる。

聡明で、勤勉で、才気煥発で、而も友情に篤くって、外には何の申し分もない、ただほんとうにもう少し強くあってくれたらばこんなことにはならなかったであろうものを。思えばいたましき人ではある。

 この谷崎の証言からすると、龍之介が蛇笏に対して『梅・馬・鶯』や手紙を送ったことには蛇笏への別れを告げるという意味合いがあったとも思われる。結局、この4月10日の書簡が蛇笏への最後の手紙となった。


 昭和2年7月24日、龍之介は田端の自宅で睡眠薬を多量に飲んで命を絶った。主治医の下島勲に渡すように伯母ふきに託した短冊には次の句が書かれていた。


     自嘲

   水洟や鼻の先だけ暮れ残る


 この句はすでに『梅・馬・鶯』の「発句」にあるが、生前最後に短冊に書いた句であることから辞世の句だと言われている。

 「自嘲」という前書が示すように、龍之介は諧謔味をまじえながら自分自身を突き放して眺めている。「水洟」の「洟」が「鼻」へと連鎖していくことによって、初期の名作『鼻』との関連が想起される。夏目漱石がこの作品を激賞し、龍之介は文壇で新世代の作家として認められるようになった。「鼻」は自意識の象徴である。

 水洟が滴り落ちる。周囲が闇に包まれるなかで、わずかな光を浴びて暮れ残っている「鼻」の「先」は、自ら死を迎えようとする芥川龍之介の自意識がそれでもなおかすかに残存していることを喩えているのかもしれない。その残像のような光景を「自嘲」としてさらに見つめ直している龍之介の眼差しがある。

 なお、芥川家は葬儀の後、香典返しとして、『梅・馬・鶯』の「発句」七十四句に三句を加えて七十七句から成る『澄江堂句集』を作った。


 芥川龍之介の死は文学者だけでなく当時の人々に広く衝撃を与え、大正から昭和へと移り変わる時代の転換の象徴として捉えられた。新聞や文芸誌に様々な追悼文が寄せられた。飯田蛇笏は『雲母』昭和二年九月号巻頭に次の句を載せた。


    芥川龍之介氏の長逝を深悼す

   たましひのたとへば秋のほたる哉


 蛇笏は龍之介の去りゆく魂を秋の蛍のかそけき光に喩えた。本当は喩えようもないが、それでも喩えねばならない。俳句という表現で龍之介を追悼する。そういう蛇笏の詩人としての魂もまた刻み込まれた句であろう。

 蛇笏の全作品のなかだけではなく、近代俳句史において傑出した追悼句として名高い。


 蛇笏は龍之介を迫慕する句を生涯作り続けた。


   河童に梅天の亡龍之介           『俳句研究』昭和9年8月弓

   ゆゑしらず我鬼をおもほゆ花雲り      『雲母』昭和25年2月号

   河童忌あまたの食器石に干す        『雲母』昭利31年8月号


 これらの句にあるように、蛇笏は龍之介と「河童」の像を重ね合わせていた。龍之介はしばしば「水虎晩帰之図」などで「河童」を自画像のように描き、小説『河童』も発表している。

 蛇笏が「俳人芥川龍之介」を『文学』昭和9年11月号「芥川龍之介研究号」に書いたことが契機となって、芥川家所蔵の『我鬼句抄』などの自筆冊子を見る機会を得た。そしてこの冊子で抹消された句から優れたものを選び、芥川家の了解を得た上で「雲母」昭和10年1月号に『我鬼俳句遺珠』として掲載した。この事実からしても芥川家は俳人そして人としての蛇笏を信頼していたと言えよう。

 1936年(昭和11)年12月、蛇笏の初めての随筆『穢土寂光』が美しい装丁の文芸書の出版で知られていた野田書房から刊行された。その「自序」には「この書出版に就き、芥川比呂志、葛巻義敏、野田誠三、西島九州男諸氏の好意を深謝する」と書かれている。芥川比呂志は龍之介の長男、葛巻義敏は龍之介の甥(後に『芥川龍之介未定稿集』等を編集)、野田誠三は野田書房主(この書の発行者)、西島九州男は「雲母」同人の西島麦南である。野田書房は龍之介の『地獄変』の限定本も出したことがあるので、芥川比呂志や葛巻義敏が仲介の労を取ったとも考えられる。その後、蛇笏は野田書房の雑誌「手帖」に寄稿するようにもなった。


 芥川龍之介と飯田蛇笏との交流を振り返り、二人の書いた文集や俳句をあらためて読むと、今、甲府市にある山梨県立文学館の常設展示室で二人の資料が隣り合って展示されていることに、ある深い絆と縁を感じる。  

                              (小林一之)


2025年7月24日木曜日

1927年・昭和2年の芥川龍之介と飯田蛇笏(一)

  今日7月24日は芥川龍之介の命日である。小説「河童」および河童を自画像とした水虎晩帰之図をよく描いたことから、「河童忌」とも呼ばれている。

 今から98年前の1927年、昭和2年、芥川は自らの生の円環を自ら閉じた。2年後の2027年は没後百年の年となる。


 それに合わせるようにして、東京都北区が東京田端の芥川家跡の敷地に「芥川龍之介記念館(仮称)」を開館する予定である。「我鬼窟」のちに「澄江堂」とされた書斎が忠実に再現されるようだ。芥川龍之介が残した原稿などの自筆資料は、甲府市にある山梨県立文学館、藤沢市文書館、東京都駒場の日本近代文学館に収蔵されている。

  筆者は1988年から山梨県立文学館準備室に勤務し、開館の準備時から開館後数年の間まで、主に芥川龍之介を担当していた。1989年11月の開館記念展・常設展から1991年10月の企画展「生誕百年記念 芥川龍之介展」までの展示計画、図録構成、項目執筆、関連映像の作成などを行った。そのような経歴ゆえに、この田端の芥川記念館のことを非常に注目している。この館は芥川家敷地内に建設されることから、芥川の人生や文学を考え、芥川を偲ぶ象徴的な場所となるだろう。開館が待ち望まれる。

 もともと筆者は大学の卒業論文のテーマが芥川であり、大学院の修士論文でも芥川龍之介「歯車」を論じた。現在は山梨英和大学で近現代文学講読、日本語表現論、山梨学という地域学を担当し、芥川を中心に夢をモチーフとする小説を研究して、そのテクスト分析を試みた論文を発表している。振り返れば、芥川龍之介研究がライフワークとなっていると言えるだろう。

 芥川龍之介の晩年の小説は、言語と夢や無意識の問題に踏み込んだ点において、方法的にもモチーフ的にも現代的な作品である。1920年代から30年代にかけての世界文学の潮流の中にも位置づけられる小説を書き続けた作家というのが、筆者の基本的な芥川観である。このブログでも、甲府や山梨との関わりというローカルな観点と現代小説・世界文学というグローバルな観点という二つ観点から芥川について論じていきたい。


 前回の最後に触れたように、芥川龍之介の「春雨の中や雪おく甲斐の山」は飯田蛇笏に贈った俳句である。この句をめぐる経緯の詳細について後日書きたいが、1923年(大正12)の秋以降、龍之介と蛇笏は二人は書簡のやりとりをして著書や雑誌も贈りあう仲となった。

 今回は1927年(昭和2)の二人の交流について書きたい。


 1926年(大正15)12月、龍之介は随筆集『梅・馬・鶯』を刊行し、飯田蛇笏に贈呈している。この本には、大正六年から十五年までの句から選んだ七十四句が「発句」と題して収録されている。(「芥川龍之介」と記された名刺が中扉に張りつけられた現物は飯田家から山梨県立文学館に寄贈された)蛇笏は龍之介に礼状を送り、次のように述べた(飯田蛇笏芥川龍之介宛書簡、1926年(昭和元)12月29日)。

              

 拝啓(略)貴著「梅馬鶯」御恵送下され御芳志の程千万悉く奉鳴謝候 正月楽みにゆるゆる拝見いたし度存居候 
 山住み即事一つ申し上げ候
   谷川に幣のながるゝ師走かな 
        蛇笏       十二月二十九日  
     芥川龍之介先生 几下 

    

 翌1927年(昭和2)の1月、蛇笏は『梅・馬・鶯』の「発句」を読み、「虚子、龍之介、幹彦三氏の俳句近業」を書いて『雲母』昭和2年3月号に掲載した。龍之介の近作を「なだらかな調子を帯び、より平明にして穏健な風をもって来て居る」「傾向的に一種の寂びをふくんで見える」と評価したが、「鐵條に似て蝶の舌暑さかな」が「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」に改作されたことについては、改作前の方を取ると述べた。

 この蛇笏の論を受けて、4月10日、龍之介は蛇笏に手紙を送り、次のように書いた(芥川龍之介飯田蛇笏宛書簡、1927年(昭和2)4月10日)。結果としてこれが蛇笏への最後の手紙となった。


 冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―niruと滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。(略)あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。(略)二月號「山廬近詠」中、
   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」
人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首
     四月十日        芥川龍之介
   飯田蛇笏樣


 龍之介は俳人蛇笏による高い評価に対して率直に感謝している。ただし、「蝶の舌」の句は意識的な「改作」ではなく記憶のままに記したと述べているが、「niru」の音にはこだわりを示し、「調べ」の面から「俳諧もむづかしきものなり」と吐露している。この手紙の末尾で、蛇笏の「破魔弓や」の句について「人に迫るもの有之候」と書いたことが注目される。


 「破魔弓や」の句は蛇笏の住む境川の子どもたちの姿を描いたものだろう。そのなかには蛇笏の子どもが含まれているかもしれない。邪気を払い、健やかな成長を願う破魔弓に守られるようにして、子供たちがたむろをつくり、その声が山びことなってこだましている。そのような山国の正月の情景が伝わってくる。また、「山びこ」は龍之介の記憶のなかの「甲斐の山」を想起させたのかもしれない。   

 龍之介が東京と山梨という場の差異を意識して「東京にゐては到底出來ず」と率直に述べたのは、青年時代から何度が山梨を訪れ、山梨という場、土地の雰囲気、山々の風景をある程度まで実感として受けとめていたからであろう。「健羨に堪へず」は単なる儀礼ではなく、龍之介の本心からの言葉だと思われる。 

 また、『梅・馬・鶯』の「発句」七十四句のなかで、都道府県相当の名が句に詠まれているのは、「木がらしや東京の日のありどころ」と「春雨の中や雪おく甲斐の山」の二句だけである。この「東京」と「甲斐」という選択と対比に、龍之介の意図を読みとってしまうのは考えすぎだろうか。               *この項続く       

                             (小林一之)

2025年7月23日水曜日

芥川龍之介の山梨への旅(二)昇仙峡・八ヶ岳・南アルプス

 7月26日の夜、芥川龍之介と西川英次郎は甲府の佐渡幸旅館に泊まった。翌日の27日には昇仙峡まで歩き、猪狩村の宿に宿泊した。

 今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。

 「 甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ  亂筆不盡」

 手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろな思がをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)

 16歳という若さゆえの体力があるとはいえ、真夏の季節に甲府の中心街から昇仙峡まで徒歩で歩いたのでかなり疲れたことだろう。昇仙峽は流石にいいが、眺めが浅いと述べている。青い水と紫の藤の長い花の想像、黒い山と川、曇った空、大きな蛍。昇仙峡という美しく静かな渓谷の中で、芥川の心にはいろいろな思いが浮かんできたようだ。旅の風景は人の想いを喚起する。


 28日に甲府に戻り、上諏訪まで汽車に乗った。前回述べたように、この旅程の参考となった徳冨蘆花は青梅街道を通って塩山、甲府、そして昇仙峡に行った後に富士川水運で静岡へ向かったが、中央線が開通したことによって、二人は汽車で長野へ向かうことができた。鉄道という近代のテクノロジーによって、高速で移動する車窓から眺める風景とその変化というパースペクティヴが生まれた。新しいパノラマビューであり、それを記述する主体の眼差しを誕生させた。芥川は中央線の車内の人々や車窓から八ヶ岳や南アルプスの山々を興味深く眺めて、次のように描く。

 汽車が驛々で止る每に 必 幾人かの農夫の乘客がはいつてくる。それでなければ自分等と同じ樣な檜木笠の連中がやつてくる。作物の話が出る。空模樣の話が出る。無遠慮な雜談と 氣のをけない髞笑とは 間もなく 彼方にも此方にも起つた。今は〔車〕内は、山家の人の素樸な氣で 充される樣になつた。

 汽車が進むにつれて 目の前には八ケ嶽の大傾斜が開けて來る 落葉松の林 合歡の花 所々に散在する村落。其處から上る白い烟 さては野に牛を飼ふ人の姿。―自分等〔欠字〕 物を眺めながら窓によつて この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活の事を考へて見た。

 農夫たちが作物や空模様についておそらく甲州弁で話しあっている。芥川は耳をそばだてて聞いていたのだろう。親しいもの同士の遠慮のない雑談や高笑いによって、車内は山国の人々の素朴な気風で満たされる。次第に車窓から八ヶ岳が見えてくるが、山岳の風景だけでなく「この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活」のことも考える。そのうち、南アルプスの山々の荘厳な姿が視界に入ってくる。

 甲信の山々は いづれも頂を力と熟との暗影を持つた 深い銅色の雲に 埋めながら、午後の日の光をうけて 遠いのは藍色に 近いのは鼠色に 濃い紫の皺を縱橫に刻で 綠の野の末に大きなうねりをうたせてゐた。永河の遺跡が見られると云ふのは そこであらう。白根葵の咲くと云ふのは そこであらう。 長へに壯嚴な山々の姿。―雪にうづもれた其頂には宇宙の歷史が祕めてあるのではあるまいか。

 ここで芥川は、「深い銅色の雲」のもとに「午後の日の光」を受けて、「遠いのは藍色」「近いのは鼠色」に「濃い紫の皺」を刻んだ南アルプスの山々を描写している。芥川の眼差しは色と光とその変化に敏感である。「長へに壯嚴な山々の姿」「雪にうづもれた其頂」に「宇宙の歷史」が秘められている、という箇所はこの『日誌』の中で、風景の荘厳さとその悠久な時間への感嘆が最も込められた記述である。


 このあたりの表現は、国木田独歩の「忘れえぬ人々」(『武蔵野』明治34年)の影響を受けているかもしれない。芥川が書いた車中の農夫たち、山間にすむ甲州人は、独歩の言う「忘れえぬ人々」のような存在である。

 また、独歩は九州旅行で立ち寄った阿蘇山を次のように描いている。 

天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を掠め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは黙ったまま一言も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。

 独歩は阿蘇山を見て「天地悠々の感」「人間存在の不思議の念」を思い浮かべる。厳かな風景から漢語的で抽象的な観念や感覚を思い浮かべている。この表現のあり方と芥川が山梨の荘厳な山々に「宇宙の歷史」という観念を見いだした叙述には共通点がある。

 芥川にとって独歩は特別な存在であった。昭和2年の文学論「文芸的な余りに文芸的な」では「独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた」と書き、独歩を「詩人兼小説家」として捉えている。小説「河童」では尊敬すべき先人としてニーチェ、トルストイ、ゴーギャンらと共に日本人ではただ一人独歩の名を挙げている。


 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、独歩や芥川が記した荘厳な山岳美について次のように述べている。

 総じて、ロマン派あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原始林――などが崇高な風景として見出された。明らかに、ここには転倒がある。 〔……〕

リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。

 柄谷は、ロマン派やプレ・ロマン派の人間によって、名所旧跡の風景ではなく、山岳などの荘厳で崇高な自然の美が新しい「風景」として発見されたと考えている。そして、そのような風景の発見が、結果的に転倒されて、崇高な自然の美に憧れる「内的な人間」を創り出す。ロマン派的な主体にとって崇高さは至上の観念の一つとなる。芥川も独歩もそのような主体、「内的人間」である。彼らは風景を創出するために、リアリズムの文章を描いていく。紀行文や日誌はそのスタイルの具現化である。


 この後、芥川と西川の二人は諏訪に入り、小諸、浅間山、軽井沢と移動して、8月1日に東京に帰った。8月21日の『日誌』には、上野の図書館に行き、館上の西の窓から夕暮れの空を見た際に「そゞろに甲斐の山の夕暮もしのばれる」と書いている。山梨の風景については繰り返し想い出したようだ。

 ここで「甲斐の山」という言葉が使われていることにも注目したい。

 この言葉はやがて、山梨で生まれ山梨で暮らした近代の傑出した俳人飯田蛇笏に芥川が贈った「春雨の中や雪おく甲斐の山」という俳句に結実していくが、この句とそれをめぐる経緯については後日書くことにしたい。      

                            (小林一之)

2025年7月22日火曜日

芥川龍之介の山梨への旅(一)丹波山・塩山・甲府

 明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友西川英次郎と山梨と長野への旅を行った。その際の日記が「丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)として残されている。

 なお、この資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。


 7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。25日、氷川から小河内へと歩き、山梨に入り、丹波山の宿「野村」に泊まる。

 7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。

 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。

 この日誌は学校の宿題として課せられたとも考えられるが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は「太古の樣な寂寞」「寥々として天地を領してゐる」という漢文の美文調の表現で記されている。


 芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。

 それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡の微妙な変化を追っている。東京では見ることのできない景観に感銘を受けたのだろう。

 自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。

 嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。

 夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。

 

 この後、二人は汽車に乗って甲府に向かった。

 十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。

 佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。


 そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。

 西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、汽車で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。

 また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。


 この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家希望者たちは旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。    *この項続く

                                (小林一之)

2025年7月20日日曜日

〈甲府 文/芸 web〉の始まり

 〈甲府 文/芸 web」は、甲府や山梨に関わる作品を中心に、文芸・演劇・映画・美術についての〈文〉を記していきます。甲府や山梨のいろいろについても触れます。また、文芸作品を原作とする独り芝居などの〈芸〉のイベントも企画します。

 〈文〉〈芸〉のあいだの〈/スラッシュ〉は、〈 and・or 〉の意味を持ち、〈文と芸〉〈文あるいは芸〉を表しています。(ロラン・バルトの『S/Z』へのオマージュでもあります)

 また、11月3日に太宰治作品の朗読や独り芝居の会を開催する予定です(このイベントの詳細については後日お知らせします)。          (小林一之)

〈甲府 文/芸 web〉の始まり

 〈甲府 文/芸 web」は、甲府や山梨に関わる作品を中心に、文芸・演劇・映画・美術についての〈文〉を記していきます。甲府や山梨のいろいろについても触れます。また、文芸作品を原作とする独り芝居などの〈芸〉のイベントも企画します。  〈文〉〈芸〉のあいだの〈/スラッシュ〉は、〈 a...