それにしてもなぜ、芥川龍之介が飯田蛇笏の「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」の句に「人に迫るもの」があるとまで感じたのか。当時の龍之介の状況について振り返りたい。
昭和に入るとすぐに、龍之介の人生は暗転する。昭和2年1月、義兄が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ自ら命を絶ったために、その対応に追われることになった。心身ともに疲れきる日々が続いた。
実は、蛇笏宛の手紙を書いた3日前の4月7日に「帝国ホテル事件」とも呼ばれる出来事が起きている。この日、龍之介は「歯車」の最終章脱稿後に帝国ホテルに行き、妻の文の友人平松麻素子と心中することを計画した。しかし、平松が文や龍之介の友人小穴隆一に知らせることで未遂に終わる。小穴の『二つの絵 芥川龍之介の囘想』(昭和31年刊)では、その夜「自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた」と語ったと記されている。
芥川龍之介の批評や研究では、この時期ただひたすら自死へと向かっていたという見解がほとんどである。しかし、そうではないと筆者は考えている。人間の生と死についてはもっと多元的な見方で考えなければならない。
1927年、龍之介は「玄鶴山房」「河童」「蜃気楼」「歯車」そして「或阿呆の一生」「西方の人」などの優れた作品を書き続けていた。行き詰まりを感じながらも、新しい作品を書くことによって、これまでにない言葉を紡ぎ出すことによって、何とかその行き詰まりを打破しようとしたとも考えられる。
龍之介の死後に残された遺稿の「闇中問答」という「僕」と「或声」との対話のなかで、「僕」は次のように語っている。
芥川龍之介!芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
芥川龍之介は自らに呼びかけている。自分自身と子供たちのために「お前の根をしつかりとおろせ」「唯しつかり踏んばつてゐろ」と。そして、「これからお前はやり直すのだ」と自分に言い聞かせている。生と死の狭間のなかで、自らの行く末について揺れ動く龍之介の声が読む者に迫ってくる。
この「お前の根をしつかりとおろせ」という言葉を逆側から照射して、蛇笏の「破魔弓や」句に対する「人に迫るもの」や「健羨に堪へず」という想いとつなげてみたい。
「破魔弓や」の句からは子供たちの生命力あふれる声が聞こえてくる。新年という新たなものが始まる季節。子供たちの元気な声が山々に反響し、山国の厳しい冬に暖かさや明るさをもたらす。龍之介は子供たちの命の声による「山びこ」に「人に迫るもの」を感じとったのではないだろうか。さらに、自分の三人の子供たちの姿も思い浮かべたのかもしれない。
山国の地にしっかりと根を下ろした子供たちと共に、蛇笏もまた山梨に根を下ろして、孤高の俳人として句作に打ち込んでいる。龍之介はそのような蛇笏のあり方への「健羨」の想いを抱いたのだと推測される。また、自身を取り巻く様々な困難や苦悩とは距離を置いて、蛇笏とその句に対して冷静に丁寧に想いを込めて手紙を書いている龍之介の姿もうかがえる。
別の角度からこの手紙の意味について考えてみたい。
芥川は三月に大阪に行き、所謂「話らしい話のない」小説論争の相手でもあった谷崎潤一郎と久しぶりに会った。この後、龍之介は谷崎に立て続けに本を贈った。芥川没後、谷崎は「いたましき人」という追悼文でこの贈答を「死ぬと覚悟をきめてみればさすがに友達がなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれた」と振り返った。谷崎は芥川のことを次のように偲んでいる。
聡明で、勤勉で、才気煥発で、而も友情に篤くって、外には何の申し分もない、ただほんとうにもう少し強くあってくれたらばこんなことにはならなかったであろうものを。思えばいたましき人ではある。
この谷崎の証言からすると、龍之介が蛇笏に対して『梅・馬・鶯』や手紙を送ったことには蛇笏への別れを告げるという意味合いがあったとも思われる。結局、この4月10日の書簡が蛇笏への最後の手紙となった。
昭和2年7月24日、龍之介は田端の自宅で睡眠薬を多量に飲んで命を絶った。主治医の下島勲に渡すように伯母ふきに託した短冊には次の句が書かれていた。
自嘲
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
この句はすでに『梅・馬・鶯』の「発句」にあるが、生前最後に短冊に書いた句であることから辞世の句だと言われている。
「自嘲」という前書が示すように、龍之介は諧謔味をまじえながら自分自身を突き放して眺めている。「水洟」の「洟」が「鼻」へと連鎖していくことによって、初期の名作『鼻』との関連が想起される。夏目漱石がこの作品を激賞し、龍之介は文壇で新世代の作家として認められるようになった。「鼻」は自意識の象徴である。
水洟が滴り落ちる。周囲が闇に包まれるなかで、わずかな光を浴びて暮れ残っている「鼻」の「先」は、自ら死を迎えようとする芥川龍之介の自意識がそれでもなおかすかに残存していることを喩えているのかもしれない。その残像のような光景を「自嘲」としてさらに見つめ直している龍之介の眼差しがある。
なお、芥川家は葬儀の後、香典返しとして、『梅・馬・鶯』の「発句」七十四句に三句を加えて七十七句から成る『澄江堂句集』を作った。
芥川龍之介の死は文学者だけでなく当時の人々に広く衝撃を与え、大正から昭和へと移り変わる時代の転換の象徴として捉えられた。新聞や文芸誌に様々な追悼文が寄せられた。飯田蛇笏は『雲母』昭和二年九月号巻頭に次の句を載せた。
芥川龍之介氏の長逝を深悼す
たましひのたとへば秋のほたる哉
蛇笏は龍之介の去りゆく魂を秋の蛍のかそけき光に喩えた。本当は喩えようもないが、それでも喩えねばならない。俳句という表現で龍之介を追悼する。そういう蛇笏の詩人としての魂もまた刻み込まれた句であろう。
蛇笏の全作品のなかだけではなく、近代俳句史において傑出した追悼句として名高い。
蛇笏は龍之介を迫慕する句を生涯作り続けた。
河童に梅天の亡龍之介 『俳句研究』昭和9年8月弓
ゆゑしらず我鬼をおもほゆ花雲り 『雲母』昭和25年2月号
河童忌あまたの食器石に干す 『雲母』昭利31年8月号
これらの句にあるように、蛇笏は龍之介と「河童」の像を重ね合わせていた。龍之介はしばしば「水虎晩帰之図」などで「河童」を自画像のように描き、小説『河童』も発表している。
蛇笏が「俳人芥川龍之介」を『文学』昭和9年11月号「芥川龍之介研究号」に書いたことが契機となって、芥川家所蔵の『我鬼句抄』などの自筆冊子を見る機会を得た。そしてこの冊子で抹消された句から優れたものを選び、芥川家の了解を得た上で「雲母」昭和10年1月号に『我鬼俳句遺珠』として掲載した。この事実からしても芥川家は俳人そして人としての蛇笏を信頼していたと言えよう。
1936年(昭和11)年12月、蛇笏の初めての随筆『穢土寂光』が美しい装丁の文芸書の出版で知られていた野田書房から刊行された。その「自序」には「この書出版に就き、芥川比呂志、葛巻義敏、野田誠三、西島九州男諸氏の好意を深謝する」と書かれている。芥川比呂志は龍之介の長男、葛巻義敏は龍之介の甥(後に『芥川龍之介未定稿集』等を編集)、野田誠三は野田書房主(この書の発行者)、西島九州男は「雲母」同人の西島麦南である。野田書房は龍之介の『地獄変』の限定本も出したことがあるので、芥川比呂志や葛巻義敏が仲介の労を取ったとも考えられる。その後、蛇笏は野田書房の雑誌「手帖」に寄稿するようにもなった。
芥川龍之介と飯田蛇笏との交流を振り返り、二人の書いた文集や俳句をあらためて読むと、今、甲府市にある山梨県立文学館の常設展示室で二人の資料が隣り合って展示されていることに、ある深い絆と縁を感じる。
(小林一之)