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2025年7月24日木曜日

1927年・昭和2年の芥川龍之介と飯田蛇笏(一)

  今日7月24日は芥川龍之介の命日である。小説「河童」および河童を自画像とした水虎晩帰之図をよく描いたことから、「河童忌」とも呼ばれている。

 今から98年前の1927年、昭和2年、芥川は自らの生の円環を自ら閉じた。2年後の2027年は没後百年の年となる。


 それに合わせるようにして、東京都北区が東京田端の芥川家跡の敷地に「芥川龍之介記念館(仮称)」を開館する予定である。「我鬼窟」のちに「澄江堂」とされた書斎が忠実に再現されるようだ。芥川龍之介が残した原稿などの自筆資料は、甲府市にある山梨県立文学館、藤沢市文書館、東京都駒場の日本近代文学館に収蔵されている。

  筆者は1988年から山梨県立文学館準備室に勤務し、開館の準備時から開館後数年の間まで、主に芥川龍之介を担当していた。1989年11月の開館記念展・常設展から1991年10月の企画展「生誕百年記念 芥川龍之介展」までの展示計画、図録構成、項目執筆、関連映像の作成などを行った。そのような経歴ゆえに、この田端の芥川記念館のことを非常に注目している。この館は芥川家敷地内に建設されることから、芥川の人生や文学を考え、芥川を偲ぶ象徴的な場所となるだろう。開館が待ち望まれる。

 もともと筆者は大学の卒業論文のテーマが芥川であり、大学院の修士論文でも芥川龍之介「歯車」を論じた。現在は山梨英和大学で近現代文学講読、日本語表現論、山梨学という地域学を担当し、芥川を中心に夢をモチーフとする小説を研究して、そのテクスト分析を試みた論文を発表している。振り返れば、芥川龍之介研究がライフワークとなっていると言えるだろう。

 芥川龍之介の晩年の小説は、言語と夢や無意識の問題に踏み込んだ点において、方法的にもモチーフ的にも現代的な作品である。1920年代から30年代にかけての世界文学の潮流の中にも位置づけられる小説を書き続けた作家というのが、筆者の基本的な芥川観である。このブログでも、甲府や山梨との関わりというローカルな観点と現代小説・世界文学というグローバルな観点という二つ観点から芥川について論じていきたい。


 前回の最後に触れたように、芥川龍之介の「春雨の中や雪おく甲斐の山」は飯田蛇笏に贈った俳句である。この句をめぐる経緯の詳細について後日書きたいが、1923年(大正12)の秋以降、龍之介と蛇笏は二人は書簡のやりとりをして著書や雑誌も贈りあう仲となった。

 今回は1927年(昭和2)の二人の交流について書きたい。


 1926年(大正15)12月、龍之介は随筆集『梅・馬・鶯』を刊行し、飯田蛇笏に贈呈している。この本には、大正六年から十五年までの句から選んだ七十四句が「発句」と題して収録されている。(「芥川龍之介」と記された名刺が中扉に張りつけられた現物は飯田家から山梨県立文学館に寄贈された)蛇笏は龍之介に礼状を送り、次のように述べた(飯田蛇笏芥川龍之介宛書簡、1926年(昭和元)12月29日)。

              

 拝啓(略)貴著「梅馬鶯」御恵送下され御芳志の程千万悉く奉鳴謝候 正月楽みにゆるゆる拝見いたし度存居候 
 山住み即事一つ申し上げ候
   谷川に幣のながるゝ師走かな 
        蛇笏       十二月二十九日  
     芥川龍之介先生 几下 

    

 翌1927年(昭和2)の1月、蛇笏は『梅・馬・鶯』の「発句」を読み、「虚子、龍之介、幹彦三氏の俳句近業」を書いて『雲母』昭和2年3月号に掲載した。龍之介の近作を「なだらかな調子を帯び、より平明にして穏健な風をもって来て居る」「傾向的に一種の寂びをふくんで見える」と評価したが、「鐵條に似て蝶の舌暑さかな」が「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」に改作されたことについては、改作前の方を取ると述べた。

 この蛇笏の論を受けて、4月10日、龍之介は蛇笏に手紙を送り、次のように書いた(芥川龍之介飯田蛇笏宛書簡、1927年(昭和2)4月10日)。結果としてこれが蛇笏への最後の手紙となった。


 冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴說恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―niruと滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。(略)あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。(略)二月號「山廬近詠」中、
   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」
人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首
     四月十日        芥川龍之介
   飯田蛇笏樣


 龍之介は俳人蛇笏による高い評価に対して率直に感謝している。ただし、「蝶の舌」の句は意識的な「改作」ではなく記憶のままに記したと述べているが、「niru」の音にはこだわりを示し、「調べ」の面から「俳諧もむづかしきものなり」と吐露している。この手紙の末尾で、蛇笏の「破魔弓や」の句について「人に迫るもの有之候」と書いたことが注目される。


 「破魔弓や」の句は蛇笏の住む境川の子どもたちの姿を描いたものだろう。そのなかには蛇笏の子どもが含まれているかもしれない。邪気を払い、健やかな成長を願う破魔弓に守られるようにして、子供たちがたむろをつくり、その声が山びことなってこだましている。そのような山国の正月の情景が伝わってくる。また、「山びこ」は龍之介の記憶のなかの「甲斐の山」を想起させたのかもしれない。   

 龍之介が東京と山梨という場の差異を意識して「東京にゐては到底出來ず」と率直に述べたのは、青年時代から何度が山梨を訪れ、山梨という場、土地の雰囲気、山々の風景をある程度まで実感として受けとめていたからであろう。「健羨に堪へず」は単なる儀礼ではなく、龍之介の本心からの言葉だと思われる。 

 また、『梅・馬・鶯』の「発句」七十四句のなかで、都道府県相当の名が句に詠まれているのは、「木がらしや東京の日のありどころ」と「春雨の中や雪おく甲斐の山」の二句だけである。この「東京」と「甲斐」という選択と対比に、龍之介の意図を読みとってしまうのは考えすぎだろうか。               *この項続く       

                             (小林一之)

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