明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友西川英次郎と山梨と長野への旅を行った。その際の日記が「丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)として残されている。
なお、この資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。
7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。25日、氷川から小河内へと歩き、山梨に入り、丹波山の宿「野村」に泊まる。
7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。
丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。
この日誌は学校の宿題として課せられたとも考えられるが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は「太古の樣な寂寞」「寥々として天地を領してゐる」という漢文の美文調の表現で記されている。
芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。
紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。
それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。
龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡の微妙な変化を追っている。東京では見ることのできない景観に感銘を受けたのだろう。
自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。
嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。
夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。
この後、二人は汽車に乗って甲府に向かった。
十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。
佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。
そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。
西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、汽車で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。
また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。
この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家希望者たちは旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。 *この項続く
(小林一之)
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